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荒神谷遺跡は昭和58年(1983年)広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布
調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事が
きっかけとなり発見されました。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本の銅剣(どう
けん)が出土しました。
遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に
比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にあります。
銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年
には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土しました。

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世紀の大発見
 
銅剣出土状況
  ■銅剣358本
荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土しました。この発見はわが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。

■銅鐸6個と銅矛16本
銅剣358本のすぐ近くに埋められていた銅鐸6個と銅矛16本の組合わせは、これまでに例のないものでした。銅鐸は国内最古型式のものが含まれ、銅矛には北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があるなど、荒神谷青銅器の発見は、弥生時代についての興味と関心を大いに深めるきっかけとなりました。
 
銅鐸銅矛出土状況

■銅剣とは
 

銅剣

銅剣は実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。
358本のうち348本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。
■銅鐸とは  
銅鐸は神を招くカネといわれています。ルーツは中国や朝鮮半島で家畜の首に付けられていた地小さな鈴だといわれています。弥生時代前期の終わりごろ、日本に伝わるとしだいに大きくなり、祭りのための道具として使われました。銅鐸は実際に鳴らすもの(聞く銅鐸)でしたが、しだいに大型化し、鳴らさずに遠くからあおぎみるだけのもの(見る銅鐸)へと変わっていきました。 銅鐸勢ぞろい
■銅矛とは  
銅矛勢ぞろい

銅矛は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが。しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます

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